まちづくりについて考える、を考える

- 2012.05.11 Friday
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- by デミズケンダイ


「今回はご縁がなかったということで」
大抵の過ちはこの言葉一つで解決できるんじゃないかなと。
言葉を置き換えると「宿命」とか「カルマ」ってことになる。
点と点をつないで線にするっていうけど、
その「繋ぐ」ものってのが「縁」だと思う。
今回のFLAT PRESSのテーマは「縁(えん)」。
そしてそのまま読み換えると「縁(ふち)」
崖っぷちとかの、ふち。
アウトラインとか境い目とか輪郭とかって意味かな?
今は科学や文明が進歩して、何でも目で確かめようとしたり、証明しようとする。
そして人はそこに名前を付け、区別したり所有したがる。
国、人種、思想や宗教などなど。
人間の感覚が鈍れば鈍るほど、物事の輪郭を言葉や目で判断しようとする。
「ふち」を目で確かめる事で安心感を得る。
人との違いを個性と呼ぶように、他との違いを見ることで
自分の輪郭を形成しようとする。そしてそこに存在意義を見出す。
実際にはそんな事はどうでもいいはずなのに。
もともとそんなものは必要なかったのに。
地球を見たってどこにも国境なんてないのに。
地球と宇宙との境い目もどこかなんて分からないはずなのに。
輪郭としての「ふち」を見ることで確かめる。
人が勝手に作り上げたものを奪い合う。
その「ふち」を確認し合うために争いが起きる。。。
話は少し変わって、
今の日本で、老若男女がナチュラルにコミュニケーションを取る場所が少ない。
地域のお祭りや、公民館や町内の寄り合いなど、昔は自然にそういう文化があった。
今は交際相手を探すのもお見合いパーティーであったり、若しくはネット。
人と人が繋がりを確認できる場所がどんどんネットの中に移行してるのかな。
もちろん縁を繋ぐ手段としてネットを利用するのは今の時代、むしろ欠かせないものだと思う。
ただその先のコミュニケーションツールにまでいくと、やはりリアルと比べて物足りない。
点と点を繋ぐ場所。。。
ある程度広い土地にある農家には今でも「縁側(えんがわ)」がある。
縁側ではそこの家族はもちろん、近所の人とも気安くコミュニケーションがとれる。
縁側の意味を建築的に説明しているので良く見かけるのは、
室内と屋外との中間の場所、外と中とを繋ぐ曖昧な空間。
良いか悪いかは別にして、そこの日常を垣間見れる場所。
僕は農家で育った訳ではないから家にそんな大した縁側はなかったけど、
イメージではやはり近所の人が勝手に出入りしてたり。
プライベートは無いかも知れないけど、人のぬくもりも感じれる場所。
家と家を繋ぐ場所なのかも。
家の壁を取っ払った、輪郭、境い目を無くす曖昧な空間。。。
曖昧さってのは、点と点を繋ぐのに必要なものだと思う。
全ての物事を物質的な輪郭にとらわれずに本質だけ感じる事ができるようにならないといけない。
そして自分のあるべき姿も、その「縁(ふち)」を取り払い、
曖昧さを持って「縁(えん)」に繋げる。
いろんな色のインクの滴が水面に落ちて、お互いが混ざり合う様に。
自分を形成している輪郭を取り払えば、その周りには無数の縁に取り囲まれているんじゃないかな。
そしてそれはちょっと手を伸ばせば誰でも簡単に掴めるものだと思う。
全ての境い目が無くなればいい。
もともとは何ひとつ境い目なんてなかったんだから。
最近はパソコンやiPhoneを覗いていると、ネットの中では
facebookだtwitterだといろいろとまた世の中が動いてるように見える。
実際は日本では革命のような、何か「行動」として起きてる訳ではないのだけど。
ただいろんな分野でくすぶってたり、小さな産声を上げてるのは事実で、
そのうち大きな「動き」になるのかも知れませんね。
もちろんこのインターネットという怪物を上手く利用してるだけの人には
今回の話は全く関係ないのですが。
特にtwitterなんかを見てて思うのは情報の流れるスピードが速すぎる。
(ま、そもそもtwitterとはそういうもんやけど。。)
知ろうと思えば世界中の出来事を瞬時に知る事ができる。
膨大な情報量。
に伴って人間の情報収集欲もものすごい事になってる。
もはや人ではなく「情報」が時代を作ってるような気すらする。
もしかしたらいつの時代もそうなのかも知れないけど。
時代の流れが激流すぎてそれについていかないと置いてけぼりになってしまいそうな感も。
「時間」というものが相対的なものだとするなら「ネット時間」
というのもあると思う。もの凄く早く流れる。早熟な。
その中で一見、格差の様なものが生まれるんでしょうね。
激流のような「ネット時間」と生物としての本来のバイオリズムと間の
「ひずみ」が今、人間の精神に様々な影響を及ぼしてるのかも。
問題なのはその「ひずみ」。。
話しは少し飛んで、
本来、ものを作るという事は何かを壊すという事。
農業なんかの「育てる」世界では大した破壊行為はないかも知れませんが、
それを食べるという行為はイコール、破壊する事になる。(大袈裟か。。。)
基本、ものをつくるとは何か形あるものを意図的に変化させる事。
でもインターネットの中だけは別。
情報も、コミュニティーも無限に増え続ける。
人の逃げ場も。隠れ場も。
子供の頃、なにかイヤな事があったりしたら、ケンカしたり、
藪の中の秘密基地に引篭もったり、公園のトイレの屋根の上でイジけてたりしてた。
ちょっと大きくなったら社会への反発の為にグレてみたりも。
尾崎豊を聴きながら。
それにしても自分の中での「悪い事」の意識は少なからずあったし、
逃げてる自分とも常に向き合ってた。
それに呼応するかのようにどこにいても見つけてくれる、親や社会の姿があったと思う。
多分見つけて欲しいんだ。
逃げ場に迎えに来て欲しかったんだと思う。
(今でもそれは変わってないかもね。)
twitterでつぶやき続けるのもそんな叫びみたいなものだろうし。
後、ネットの中で叫び続けるのはなんだか卑怯な気がする。
心の叫びをメディアに流してる、的な。
今、ネットの中に逃げ込んだらなかなか見つけられない。
逃げてる感もあまりない。共感してくれる人も見つけやすいし。
むしろそっちの社会の方が現実より楽しいんじゃないかとすら思う。
その世界だけで生きる事を選ぶことすらできる時代。
僕が言いたいのは物理的な話だけではなく、精神的な成長も人とのぶつかり合いで
作られていくもんだと思う。
壊すことなくただ作られていく社会なんてホントはありえないんじゃないかな。
だからその「ひずみ」のようなものはどこかにしわ寄せとして来るような気がする。
バブルがはじけるように。。。どこかで何かが「壊れる」ような。
で今「癒し」的な商売も盛んなんでしょうね。
ながーい前振りになりましたが、今回の僕の言いたい事。
「リアル逃げ場商売」
なーんて、今後はそんな商売が必要なんじゃないかと。
いろんな意味での逃げ場はあると思うけど、肝心なのはちゃんと自覚してる必要があるということ。
そしてちゃんと見つけてくれる人がいるという事。
例えるなら会社の帰りの屋台のおでん屋さんみたいな。
飲んだくれてグチってるとこを奥さんが「もういい加減帰ってきなさい」
なんつって。
お母さんに怒られて勢いよく飛び出していって、とりあえず登る公園の便所の屋根。
彼女とケンカして一人、車を走らせていく夜の海だったり。
そんな逃げ場を人は持っとくべきだと思う。
ちゃんとお互いが同じ速さで感じれる「時間」の中での逃げ場。
あ、商売とか言っときながら具体的な案は何もないですが。。。
でもFLAT kitchenはそんなリアル逃げ場でありたいな。
同じ空間にいなくても、同じ時間の流れを感じれる仲間を見つける事が大切なのかも。
ネットはそれを見つける手段で止めとく事が理想なのかな。
てな事をネット上のブログで書いてる、オレ。






前にちょこっと書いたけど、
「多分その昔、全てが繋がっていた頃は”デザイン”なんて言葉はいらなかったんだと思う。
人間の精神と肉体と感情がバラバラになってきたから、
人間界にだけ”デザイン”という作業が必要になったんだ」
な〜んて勝手にデザインについて語ってみたりもしてみました。
デザインに関わる仕事をしていて、よく、
「デザインってなんやねん?」
という話になる。
デザインとアートの違いとかも。
職業柄なんとなくは頭にあるけど、定義はみんないろいろ。
デザインは商業の為ってのもなんだか寂しいし。
僕の中で思うのは人が生まれてきた意味が自分を表現することとするなら
芸術家やアーティストと呼ばれる人達はそのまま表現できてる。
でもその人の魅力を感覚で解る人にはそのままでいいけど、
みんながみんなすぐ理解できる訳じゃない。
だから社会との間に入る何かが必要なんだ。
それを言葉で表すと
デザイナー、プロデューサー、キュレーター、オーガナイザー・・・
って事になるのかと。
どちらにしても表現者。
光がないと影はない。でもその二つだけでもない。
その間に入るものがあるから人は影という存在を通じて光の美しさを知る。
その影をどう魅力的に創りだすかがその間に入る人達の仕事じゃないのかな。
人間社会と人間の本能との矛盾を埋める存在が
デザイナーとかプロデューサーとかキュレーターとかいろんな言葉にかえられるんじゃないかな。
だからデザイナーは自分が作り出した「影」を見て欲しいんじゃない。
その向こうの「光」を見て欲しいんだ。
向き不向きとか持って生まれたものはあるかも知れないけど、
自分が「光」か「影を作る人」かどうかは
その場、その環境で考えればいいんだと思う。
時々ちょっと俯瞰してみて誰がその役割に一番当てはまるかを考える。
それで思うのが、
対立する何かとか、並行する何か、向かい合う、隣合う…。
全てのものに「間」がある。
原子や素粒子の間にも。
建築でもみんなが集まる場所は「居間」とか「茶の間」とか言うし。
交差点とか、中継点、通訳、ハブ化。
いろいろ言い方はあるけど。
「間」を意識したら全てが繋がるんじゃないかとすら思う。
やりたい事と、やらなきゃいけない事の間にも何かがある。
本能に従う事と、社会で生きる事の間にも。
間を見つめれば何かの答えがあるような気がする。
「光」として進み、表現し続けるか、
その光を体中に受けて社会に「投影」することで表現するか。
僕はどっちかって言ったら「間」に入りたいのかな。
光りたいんじゃなく。
あまりオシャレに気を使わない僕としましては
基本、作業服で一日を過ごす僕にとって、
私服なんかは必要に駆られないと購入しないし、
ましてや時計やアクセサリーにお金をかけるなんて事は
今までほとんどしませんでした。
そんな僕が去年はいろんな素敵なものづくりの人との出会いの中、
個人的なものをいくつか購入しちゃいました。
その中で最高にお気に入りのものをひとつ。
手作りの木製フレームのメガネ。
ずっと眼鏡が欲しいと思っていたのですが、
生まれてこの方、両目共1.5以外の数値を出したことがない僕にとって
無用の長物。
そしてこの度、ふらっと立ち寄った田中眼鏡本舗で運命的な出会いがありまして。
カッコいい眼鏡やな〜と思ってかけてるうちに
作られるまでのストーリーを聞いて、購入を決意。
眼鏡って、顔を形成する一部。
かなり高価なものですが、自分の顔の一部を買うんなら良いかなと。
もちろん福井産です。
でもメガネの聖地、鯖江産ではなく勝山産。
久保指物店
実は眼鏡屋さんではなく、本業は建築で使う建具屋さん。
そこの三代目さんが大の眼鏡好きで仕事の合間に眼鏡つくりを始めたそう。
3年くらい前に第一号が世に出てきたらしいのですが、
そこから改良を重ね今回僕が購入したものに至ります。
細部にまで物凄いこだわりがあり、木製のフルフレームでここまでスムーズにレンズの交換が出来るのはまだ世界でも類を見ないらしい。
僕が食いついたトコは
本当に眼鏡が好きで本業の合間にここまでのものを作りあげた事。
これぞものづくりの原点だと思って。
趣味と実益を兼ねる。
(手間のこと考えたらこの眼鏡はまだまだ商売にはなってないと思うけど。)
でも仕事に対するやりがいや、誇りを持てると思う。
福井にはまだまだ世界に誇る技術者がゴロゴロしてる。
やっぱり福井の方向性は今も昔も「ものづくり」なんじゃないかな。